気が付かれなかった取り替え子

ここは、とある人物の出来事が手記として現れる隙間の世界です

不思議と増える季節

 暑くなり始めると、不思議と野生動物の死骸を多く見るような気がする。

 私は今までに、キツネ、鹿、カラスなどを見て来たが、一番多く目撃するのは猫だろう。

 最近も道端で、清掃員に尻尾を掴まれ連れて行かれる猫の死骸を見たし、その数日後には車に轢かれたであろう猫の死骸が道の真ん中辺りにあるのを見掛けた。

 ちなみに死骸を処理する清掃員はとても手馴れていたように感じる。多分私が知らない所で、沢山の動物の死骸を運んで来たんだと思う。

 

 この不思議な現象だが聞いた話によると、春に生まれた野良猫が親から離れて動くようになり、危機感をあまり抱かずに道に出てしまうのではないかとか、活動期に入るからではないかという説があるようだ。

 私は、梅雨に入ると不快指数が溜まって注意力が散漫になり、事故を起こしやすいという話を聞いたばかりなので、それは他の動物にも当てはまるのでは? とにらんでいるのだが。

 他にも、度胸試しをするように、猫やカラスが走っている車のギリギリを通り過ぎる事があったり、猫が道を渡る途中で立ち止まって振り返ったりという話も聞いた。

 多分カラスに限っては、悪戯好きだし人間をおどかして楽しんでいるんだと思う。

 そしてそんなカラスの中にはきっと、脅かしついでに人間を事故らせようとする、極悪非道な悪鳥カラスも混ざっているに違いない。

 そして道の途中で止まる猫だが、それは猫社会にも心霊現象という物があって、死んだ猫が仲間を作ろうとした結果、危険な目に遭わせているのかもしれないという結論に至った。

 しかし残念な事に、これらは検証していないので実証はできないんだよね。

変化について行けない

 世では『障害者に優しくしよう』とか『障害者差別を無くそう』とかしているらしい。

 その関係かは知らないが、障害者の害の字をひらがな表記にしているのを見る。

 しかし、字を書くのが苦手を通り越して苦痛の私から言わせれば、なぜ害の字よりも画数が多くややこしい障の字を残したんだ。となる。

 

 あと、和暦を使うのはいいんだけど、手帳とか書類関係にまで使わないでほしい。

 私にとって、和暦という一年の途中でいきなり年号が変わって年数も振出しに戻る暦って、理解しづらく計算も混乱するし苦痛になりやすい。

 別に和暦が駄目とかじゃないよ? カレンダーとか年賀状とかお金とか、色々なシーンで使っていけばいいと思うよ。

 でもさ、どうして不定期で年号と年数が変わる物を手帳とか書類関係にまで使うの?

「えーと、平成三十一年と令和元年は2019年で、その二年前はへいせいあー、あー……にせんじゅうきゅうねんはへいせいさんじゅういちねんだったっけ……?レイワガンネンハ、レイワイチネンデアッテ、ゼロネンデハナイ…………」

 とか、いい年したおばさんが痛々しく一人で混乱しながら懸命に答えを導き出すのは別にどうでもいいのか?

 それともボケ防止にわざとしてるの?

 

 とかなるが、まあいいか。インターネットで和暦と西暦の早見表を見れば済む事だ。

ピンク色の扉

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 あなたの目の前にはピンク色の扉がある。

 どうやらこことは違う場所に繋がっている様だ。

 

 もちろん、あなたはここから立ち去ってもいいし、扉を開けてみてもいい。

 

 しかし、もしも扉を開けるのであれば、そこには知らなくてもいい光景が広がっているかもしれない。

 

 それでもあなたは、扉を開けてみますか?

 

はい

いいえ

一度壊れた物は元通りにはならない

 BBSを見ていた時の事だ。

 人間の体は機械と一緒で、壊れないように定期的に検診したりバランスの良い食事を取る事が肝心で、一度壊れると元に戻すのは難しい……という様な事が書かれていた。

 確かにその通りだなと思ったし、それと同時にこれは精神面にも言える事だな。となった。

 

 車は定期的にメンテナンスが必要だ。そのメンテナンスの結果、必要な物は補充し、取り換えが必要な部分は取り替える。

 もちろん常日頃から無茶はさせないというのが前提だし、事故などで傷ができたらなるべく早く適切な処置をする事も大切だろう。

 だけど、もしメンテナンスをしなかったら?

 傷ができた後に、適切な処置をしなかったら?

 

 散々乗り潰してボロボロの状態になった後なら、修理をするよりも新しく買い直した方が、手っ取り早くそして確実だ。

 更に初期不良品の場合だが、それは使える部品は回収して、処分する方が効率的なんだろうな。

 

 

 そういえば昔見たコメディー映画で、永遠の命と若さを手に入れたけど壊れた体を修復しながら、ボロボロの鉄屑の様な状態で生きて行かねばならない二人の女性の物語があったな。

 死にたくても死ねないから、そうなってしまったんだったかな?

 

 ボロボロになってまで生きる価値ってこの世界にあったっけ? となるが、死ねないのならば仕方がないか。

生かすだけの医療

 私の母親は死んでいる。私が二十代の頃に自殺した。

 だけど私は母親の没年月日をよく覚えていない。覚える気がないのか、元々そういった事を覚えるのが苦手なのか、その両方かは知らないが、私にとって母とは、死んで悲しいと思えるほどの価値もない程度の存在だから問題ない。

 

 そんな私の母親だか、彼女は普通の人だった。

 お見合い結婚して子供を産み普通に仕事もできる、もしかしたら発達障害かもしれない。程度のどこにでもいるおばちゃんだった。

 そんな彼女は私という存在を捌ききれず、ストレスを溜めて精神病院に通い始め、薬を投薬されたが状況は悪くなる一方になり、とうとう暴れるなどをするようになって、統合失調症として閉鎖病院に入れられた。

 入院した先で、明らかに母のストレスの一因である旦那に合わせるなどの処置と、投薬に投薬を重ねられ、それでも症状が治まらないから電流走らせようか?

 という話まで持ち上がる程度には重症化したが、一年後、まるで廃人の様になって退院し、それから数年後に自殺した。

 自殺する数年前から私に「殺して」と頼んできていたので、当然の結果だろう。

 

 しかしその自殺から数年後、私は自身の担当医から、なかなか興味深い話を聞く羽目になる。

 

 私の当時の担当医は病院の副院長で、その病院と母が入院しその後通院していた病院とは姉妹病院という関係だった。

 そんな彼と投薬に関する話をしていた時、こんな事を言われたのだ。

「この薬、貴女のお母さんが処方されていたものと同タイプだけど、いいの?」

「貴女のお母さんは薬の副作用で自殺したんだよ」

 

 私は家に帰ってインターネットで薬の副作用を調べた。

 すると、確かに自殺志願が強い患者には与えない事。とあった。

 

 これは私の仮説だが、精神医学の世界では、検査でハッキリとした結果は出ない。

 医療ミスがあろうが人権がなかろうが、社会で騒がれず患者の妄想で片づける事も可能だ。

 問題を起こしても医師や病院側が責任を問われる事もなく、他人をどんなに不幸にしても責任が追及されなければ、改善もされないんじゃないか?

 

 しかし、仮にこの仮説が正しいとしても、私としては彼らが事実を社会に公表し、誰であっても比較的使いやすい安楽死制度を導入してくれればそれで満足だけどな。

 でも、そんな未来は来ないだろ?

 まぁこんな事、母親を壊した私が言えた義理もないか。